『生活考察』編集日記

辻本力。ライター・編集者。『生活考察』編集人。お仕事の依頼は chikarat79@gmail.com まで。

上か下か

部屋にいると、頭上から何やら物音がする。我が家は2階建ての2階部屋だから上から音がするはずはない。では屋根裏部屋から、という発想がもたげてくるところだが、アパートを外から眺めている限り、そんなスペースがあるようには思えない。


ここの前に住んでいたアパートでは1階に部屋があった。当然2階の物音――主に足音――が聞こえることが多々あった。どうも不特定多数の人間が出入りしているらしく、その足音はそれぞれ固有の特徴があり、そんなことから「個性は様々なところに宿る」なんてことを感じていたものだった。


今は2階に住んでいるが、それまで私は1階にしか居住した経験を持たない。であるから比較のしようはないのだが、現在のアパートでは、もっぱら下から音がする。それもやはり人の足音だ。2階に住みながら1階の住人の足音を聞くことになるとは思ってもみなかった。


だが、今聞こえてくる音―やはり足音だ―は、2階建ての建物のさらに上から聞こえてくる。屋根裏に人が潜んでいるとは思えない。なぜなら屋根裏がないのだから。天井に人が居るとは思えない。何の理由があってこんな時間――深夜0時過ぎ――に人様の家の屋上で歩きまわる者がいようか。天井の修理も、こんな時間にする仕事ではない。こんな夜更けに屋上でする仕事といえば、泥棒稼業くらいか。しかし、その考えも怪しい。夜の散歩を楽しみたいなら、こんなボロアパート以外にもっと魅力的な建物はたくさんある。


日常が非日常になるのは、自分で選択したのではない限り、ありがたいことではない。非日常は、お楽しみとして以外には、不安くらいしかもたらさない。相手が非日常でもって私の眠りを妨げようとするのであれば――私はこの時間にはすでに眠っていることが多い――、私も非日常でもって対処するしか術はない。しばし策を練る。音は、頭上で断続的に鳴り続いている。普段は下から音がする。しかし、今は上から音がする。日常を音でもって逆転させようとする何者かには、やはり逆転をもって対処せざるをえないという結論に至る。


私は、逆立ちをした。これで音は普段通り、下から聞こえてくる。日常が正常に機能する。普段は取らない無理な姿勢を取ることで日常が戻ってくる。能動的に獲得した日常も、やはり日常には変わりない。


それにしても、不思議なものである。逆立ちをしているはずなのに、血が頭に溜まっていく感覚がない。むしろ逆に、溜まっていた血が全身に戻っていくような、逆立ちから解放されたような気分である。また、今気付いたが、先ほどまで逆立っていた毛が、きちんと肩まで落ちている。


絶えることのない足音は、徐々に眠気を誘うリズムになる。もはや上や下といった感覚は消え、音は丸みを帯び、ゆっくりと、わずかなわずかなエコーとなって・・・暗溶。